みんなで広げよう「橋の日」を 8月4日は「橋の日」記念日

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「橋の日」あれこれエッセイ

橋の昔と今

副会長 貞原信義

8月4日は「橋の日」です。宮崎が発祥の地で全国、各県に広まっています。

橋は、身近な存在ですが自動車社会で「道路の一部」であり、普段、人々に気づかれないまま、多くの車両の通過を支えながら、人材の移動と物資の流通という大切な役割を担っています。その道路は、全国津々浦々はもとより、国際線の空路と航路につながった交通網であるネットワークとして、地球全体を覆っているのです。
そうしたネットワークの道路・鉄道網は、すべて「橋」で繋がっているのです。交通の「要」である「橋」が通行不能であったら、繋がっている交通網の機能は成り立たないのです。私たちが世界旅行に行く場合に渡る「身近な橋」も含めて「世界中の橋」は、すべて「世界中に繋がっている」のも事実です。そうした状況で、歩いて渡る機会が失われ「橋への身近な関心が薄れてきた」のも事実です。

むかし、道路は「公共の生活広場」として、子どもの遊び場であり、地域の人々の出会いや立ち話など、交流の場でもありました。そうした地域において「橋」は、その地区の「目印(ランドマーク)」として楽しまれ、普段多くの人で、賑わっていました。
橋の両端の両側の親柱には橋銘板があり、橋の名前と河川名が明記されています。むかし、高欄(てすり)の笠木をなでて、辺りの風景や川の流れを楽しみながら、多くの人が歩いて渡っていた時分には、生活の中で「橋の存在感は身近なもの」でした。

普段、現在の自動車社会で橋は、完全に「道路の一部に過ぎない」存在になり、橋と人間との触れ合いが難しくなりました。そのような状況の中でも、橋は、すべて自動車を介して多くの人々の交流を容易にし、物資の速やかな運搬手段として「日常の生活社会」を支えているのです。

一方、地震・台風など天然災害や、産業爆発・生活火災など「緊急事態における橋の存在」は、昔よりも生活に重要に関わっています。緊急時の1:避難・2:救命・3:救援・4:復興のためには「橋が通行不能」となっていては、すべての対応が不可能なのです。 そうした「普段と緊急時と併せた橋の社会的な役割」について、多くの人に、常日頃から関心をもって、理解いただきたいのです。一方、橋には実用的な役割だけでなく、それぞれの情景に似合った「景観美が備わっている」のです。それぞれに相応しい「夢やロマン」、文化・歴史伝説、あるいは芸術などともつながり、私たちの「普段の生活の中での心豊かさ」ともつながっているのです。
海外では芸術的な多くの橋が存在していますが、日本でも橋の周りに、多くの人が集まるような国になることを願いたいです。 「橋の日」を通じて、より多くに「橋」に関心を持ってもらいたい。

橋の日は心と心の懸け橋

橋の日提唱者 湯浅 利彦

私の故郷は宮崎県の北部に位置している延岡でございます。
延岡の特徴は他の都市と比較して河川と橋が多い様に感じます。河川は代表的な五ヶ瀬川、大瀬川、祝子川、北川等都市を分断した形で太平洋に注がれています。どの河川も清流しか棲息しない鮎が豊富にいて故郷の自慢でもあり、誇りでもある。従つて水郷・延岡といわれる所以である。
また昭和10年完成の板田橋、昭和12年完成の安賀多橋は延岡の代表的な橋と言えよう。他に多くの橋が町の至る所に点在しておりその数約500とも云われる。

橋は生活と文化を支えている重要な財産であるが、特に延岡は強く感じてならない。ただ単に何気なく渡っている橋であるが、橋を見直すとか、橋に感謝するとかもっと橋に関心を持つことが必要ではないかと考えた次第です。それも記念日を設けてみんなが参加できるお祭りでも出来たらと考えたものです。
記念日は何時がいいか先ず考えてみました。
たまたま語呂合わせで8月4日がはしと読めることが幸いしました。
趣旨と記念日は決定した、後は何処にアプローチしたらよいのか?私は迷いは全くなかった。
姉妹河川でお世話になつた当時延岡の観光を考える会代表野中玄雄氏に橋の日をやろうと持ちかけた。今から17年前の昭和60年9月の事でした。野中氏も賛同していただいた。

試行錯誤しながらの橋まつりではあるが昭和61年8月4日大瀬川に架かる安賀多橋に於いて、全国に先駆けて橋の日のイベントを開催することが出来ました。初めての橋の日イベントですから野中氏も私も感慨深いものを感じました。
イベントの内容は大生け花献花、団七踊り、橋の清掃、ブリッジスタンプラリー等々盛り沢山の行事が行われ第1回の延岡橋の日は多くの人々のご協力をいただき大成功でした。

昭和62年3月頃某新聞社の論説委員の方から湯浅さん延岡に続いて宮崎でも橋の日をやったらどうかとの電話をいただきました。即今年は宮崎でも橋の日を行うことを約束しました。
昭和62年5月頃有志というか知り合いで実行委員会?を結成致しました。僅か3名のメンバーです。
横山忠夫氏(現・宮崎橋の日実行委員会副会長)田代隆士氏(自営)と3名、横山氏を代表にお願いして宮崎橋の日の趣意書、企画案等作成し8月4日を目指しました。

平成62年8月4日建設省宮崎工事事務所、宮崎県宮崎土木事務所、宮崎市都市整備部のご出席をいただき小中学生、市職員、市民等約120名が集まり大淀川の河川敷清掃、橘橋大淀川の学習会、ラジオ体操、そして最後に全国に広げようと200個の風船を飛ばした。夏の陽射しが眩しい中、心地よい汗をかいたのを今でも昨日の様に覚えている。
また隣県の鹿児島でも私が鹿児島建設新聞社に橋の日を働きかけました。平成8年7月同社の企画営業部長桜木氏から今年の8月4日鹿児島橋の日を行いますからとの嬉しい連絡がありました。
宮崎橋の日を模範として趣意書、企画案を作成、8月4日甲突川に架かる天保山大橋を中心に清掃作業を行い参加者全員良い汗をかきました。

以上のように昭和61年延岡市、翌昭和62年宮崎市、平成8年鹿児島市遠い所では北陸地方とゆつくりではあるが全国に広がりを見せております。
橋の日は郷土のシンボルである河川と、そこに架かる橋を通して、ふるさとを愛する心と、河川の浄化を図る日。
橋の日の起こりから広がりを述べましたが、人と人との心と心の懸け橋で橋の日が発展しています。提唱者として大変嬉しく思っている次第です。

橋についてのこぼれ話

南日本道路興業(株) 生野 敏明

私どもの会社は、橋梁の補修を専門にしている会社でございますが、私もこんにちで入社21年目となり数々の橋を補修してまいりましたが、思い出に残る橋と致しましては、沖縄営業所に勤務している時にたずさわった御成橋という橋が思い出に残っております。

 昭和64年に沖縄県南部土木事務所より発注になりました御成橋補修工事を頂きましたが、この橋は名前からもわかりますように昭和天皇が戦前に沖縄県においでになった時に、渡られた橋と言う事で御成橋と命名された訳でありますが、昭和64年に昭和天皇が崩御された翌日にくしくも、補修工事が始まった為、昭和天皇崩御に伴う補修工事と勘違いし、新聞社・テレビ局が取材に押し寄せインタビュー責めに会いました。

 説明の上勘違いと分かり納得して頂きましたが、翌日の地元新聞に勘違いのエピソードとして掲載されておりました。

 工事の内容といたしましては、市街地に位置している為、橋全体の景観を考慮し設計されておりましたが、工事完了後、新しく生まれ変わった御成橋という事で再度新聞・テレビに取り上げられ報道されました。

 平成6年に沖縄へいった時、なつかしく思い御成橋へいってみましたが、都市計画に関わる河川改良の為、取り崩され新しい御成橋が架かっておりました。

 新しく生まれ変わった御成橋をみてなにかしら一抹の寂しさを感じた事を覚えております。

橋にロマンを

宮崎「橋の日」実行委員会 事務局長 鶴羽 浩

初雪やかけかヽりたる橋の上(芭蕉)
テレビや映画、歌、そして小説の中も登場する橋。

出会いや約束の場所であったり、何か新しい事の始まりを予感させたりと、橋はその機能以上に私たちの生活かかわっています。私たちのグループ、宮崎「橋の日」実行委員会は昭和61年に結成されました。ハ・シのゴロ合わせで8月4日になったのです。母の日・夫婦の日などいろんな記念日がありますが、それなら橋の日もあっていいんじゃないか。そんな素朴な思いからのスタートでしたのです。普段は橋といえば道路の延長、あるいは道と道をつなぐものといったように、機能面からだけとらえられているのではないか。でもそれでは寂しい。人にやさしい、文化の香りがする橋というとらえ方ができないだろうか。冒頭のような俳句が生まれた背景としての橋です。私たちは町の歴史や人々の暮らしと深くかかわってきた橋のロマンを大切にしたいと考えたのです。外国に行くと、そこの人達がまず自慢するのが橋であることは少なくありません。それぞれの橋には出会いや別れなど、人々が刻んだ思い出があり、さらには伝説や民話があります。新しい橋は都市景観や市民のライフスタイルと大きくかかわっています。またカタチだけの橋ではなく、心のかけ橋、夢のかけ橋という言葉もあるように、人と人、心と心をつなぐのも橋だと思うのです。このように橋がもっている多様な「顔」を見直してみようというのが私たちの「橋の日」によせる思いです。いくつかの取り組みを紹介します。ひとつは「橋の日座談会」です。建築から文学等・・・様々な分野の人が集まり、自由に話をするのです。年齢も小学生から八十歳のお年寄りまでと幅広く、現在まで62名の方に参加していただきました。たくさんの面白い意見や提言が出て、橋に対する潜在的な関心の高さを思い知らされます。時代が中世から江戸時代、さらに未来へとたどるのも、長い歴史を生きる橋にふさわしい展開だと思います。この他にも橋や河川敷の清掃、音楽会、パネル展等々。最初3名で始めた運動も今ではで300名の参加となり、宮崎県内の市町村やお隣の鹿児島や福岡でも「橋の日」の行事がおこなわれるようになり、継続の大切さを改めて感じているところです。

10周年を迎えたのを機に、二つの新たな試みを開始しました。一つは、地域への更なる密着です。私たちの活動の拠点であり、宮崎市のシンボル的な橋「橘橋」の初代橘橋が、一個人であった福島邦成翁の独力私費により架けられましたが、その福島邦成翁の没後100年を今年迎えます。先人の思いや歴史を振り返る活動をテーマとして現在、準備を進めています。

二つ目にインターネットによる情報発信です。ホームページを開始して、全国の関連する団体や企業との交流やアピールが、地域という垣根を通り越して、その夢やロマンが相互交流できるようになりました。2週間毎の更新を半年余り続けていますが、滑り出しは順調です。問題点としてはメンバーは有志の集まりであり、資金集めも大切や活動のひとつであり悩みの種であること、12年目を迎えて中心メンバーの若返りが必要であることが当面の課題です。今後も、見えないけれども心やふれあいを大切にした町づくりをしていきたいと思います。

橋の日イベントの想い出

(前副会長 横山忠夫)

橋の日提唱運動に取り組んで10年が経過した。ふりかえってみると、私が小戸小学校を最後に退職した年であった。「8月4日=橋の日」の提案者の湯浅利彦さんから、橋の日提唱の相談があり、自ら考えていたこともあって、その話を受け入れ、昭和62年8月4日、橋の日実行委員長として、第1回のイベントを実施した。小戸小の先生方や子供達の応援をいただいたことはいまも忘れられない。また、その時の行事内容は現在と比べものにならない位、ほそぼそとしたものでした。近隣の市民の方々の協力を得て、関連行事を推進することができた。その当時の行事内容を列記してみると、午前7時30分に市民会館噴水広場集合。委員長あいさつ。来賓あいさつ。ラジオ体操。橘橋・大淀川河川敷清掃。橋・河川学習。橋上より風船放ち、橋に生け花を掲げるといった行事であった。

この運動に協力いただいた方々は、夫婦同伴組が多く、横断幕や看板をとりつけたり、風船に橋を結びつけたりの作業で、汗びっしょり、いま思うと当時の行事を何とかやりとげたものだと考える。

 当時の主催責任者として、閉会のあいさつで、「多数の方々が、橋の日の趣旨にご賛同戴き、学習会その他の行事にご協力たまわり感謝にたえません。心から厚くお礼申し上げますと共に、ボランティア精神をもって、橋の日提唱運動に、今後共御協力賜りますようお願いいたしまして閉会のあいさつとします。」と言ったことが、今なお頭の中に残っている。

曾祖父を偲ぶ

(曽孫 福島順一記)

福島邦成は、(1819年)太田村(現中村西一丁目)に生まれ、17才から昌平塾に學び、蘭學、西洋医學、薬學を修め、後に延岡藩の待医を務めた。

 帰郷後、明治四年に居宅の近くに宮崎病院(現善栖寺境内)を設立した。近くに流れる大淀川の渡し舟が増水の度に運休するのを眺めて、江戸を知る邦成は、著しく不便を感じていたに違いない。対岸の患者は、来院できず自らは住診できない等を含めて、商人も困った筈である。

 明治5年頃から、橋を目録み再三県に架橋申請を行ったが、許可が下りず、明治13年にようやく許可をえた。

 同年2月私財千七百円を投じ、木橋(長さ382米幅3.6米)を完成、4月開通式を擧行した。邦成は雅号を退庵、橘南、赤洲等を名乗っていたが、その中から一字をとり、橘橋と銘名した。宮崎で最初の賃取橋である。場所は、上野町通りと、善栖寺正門前を結んだ線上で現在の橋より上流にあった。

 没後は、医師としてよりも、橘橋の創設者としての方が知られるようになり、観光バスで紹介され、又、北詰の黒御影石の橋碑に刻名され、郷土史にも語られている。

 平成10年(1998年1月20日)は邦成の没後百周年であり、宮崎の歴史の一駒として紹介させていただいた。

忘れられぬ橋

橋の日相談役 藤本 廣 (宮崎大学名誉教授)

ヨ-ロッパの町や田舎を歩きますと、名も知れぬ小さな橋のたもとや橋の高欄の中ほどに、素朴な木彫りや石彫りのマリヤ像や十字架などが建立されている橋に出会うことがよくあります。中世のヨ-ロッパでは、ロ-マ・カットリック教会が冤罪符を売ったお金で造った橋が多かったそうで、そんな橋には、たいてい「神の加護によって悪魔の邪魔に打ち勝ってこの橋が造られた」といった伝説があり、橋が両岸の住民の心の絆となっています。

 私は土木工学が専門であるために、これまでに歩いてきた国内外の目についた橋は殆どスライドに撮影してありますが、橋梁技術史上著名な橋は別にして、上記のような橋の方に却って忘れられぬ思い出があります。その中の一つに、曾てのユ-ゴスラヴィア連邦から独立したスロヴェニア共和国の首都リュブリャナから、オ-ストリア・アルプスに向かって車で半時間程走ったスコフィア・ロ-カという古い田舎町の入口の谷川に架かっていた石造ア-チ橋があります。

石造ア-チ橋その橋は、写真で見られるように、ほゞ3分ノ2円1径間の石造ア-チ橋で、その高欄の中央に、幼いクリストを抱いた石彫りのマリア像が立っていました。14年前に、私をその町に案内してくれたリュブリャナ大学の友人の説明によりますと、その橋にも、昔、神の加護によって建造されたという伝説があり、その付近の住民の神聖な場として大事にされてきたとのことでありますが、中世のあの“魔女狩り”の時代には、その橋上から魔女と疑われた女性が川に投げ込まれて、浮けば魔女、沈めば魔女ではない、と判定されたそうであります。魔女と判定されれば勿論死罪となりますし、沈んで浮き上がらなければ溺れる訳ですから、結局、疑われた者は全て死んだことになります。そんな、悲惨な歴史のある橋でありますが、それから7年後に家内を連れて再びその町を訪ねたときも、その橋は変わらず、周辺の古い石造りの建物と一体となって、過去にそんな悲しい出来事があったとは到底思えない位、静かな落ち着いた美しい景観を見せてくれていました。

 その一方で、最近ようやく平和を取り戻しつつある旧ユ-ゴスラヴィア紛争の場、ボスニア・ヘルチェゴヴィナの古都モスタルの中を流れるネレトヴァ川に架かる16世紀初頭の石造ア-チ橋が、この紛争の砲撃で無残に破壊されてしまっているとのことであります。この橋は、“ネレトヴァの戦い”という第2次大戦中のナチス・ドイツに対する、旧ユ-ゴスラヴィアの故チト-大統領を指導者としたレジスタンスを描いた有名な映画にも出てきますが、トルコ人の手によるイスラム様式のア-チの美しい橋でありました。近い将来にでも、この橋が復元されることがあれば、もう一度ユ-ゴスラヴィアを訪ねたいと思っている昨今であります。