肥後の石橋ロゴ

 「石橋を叩いて渡る」という諺があるように、古くから石橋は堅牢なものの代名詞であった。川を船や人の力で渡していた時代、そして洪水のたびに流されていた木造橋の時代、人々は大自然の気まぐれに翻弄された。増水で何日間も荷や人を渡せなかったり、また急な病人が命を落とす事もたびたびであった。人々はいつでも渡れる橋を切望した。だがそれは当時、かなわぬ夢であった。

 そのような時代に、まったく新しい工法で登場した石橋は、「アーチの理論」と「石」という不変の材料とを組み合わせた科学的産物であった。アーチの技術は遠くはローマからシルクロードを通り中国へ、そして長崎へともたらされた。

 今から200年ほど前、当時長崎奉行所に勤めていた武士 藤原林七は、不思議なアーチに魅せられて外国人と接触したことから国禁に触れ、肥後の種山村(現八代郡東陽村)に身を隠した。林七の石橋にかける情熱は、やがて名工 岩永三五郎、そして橋本勘五郎へと時代とともに受け継がれ、彼らはその“技”により磨きをかけていった。

 まだ全国でアーチ橋がほとんど知られてなかった頃、九州には多くの石橋が存在した。時の明治政府の要請を受けた勘五郎は、東京に江戸橋、二重橋、日本橋などの多くの名橋を残した。「紙と木の文化」といわれる日本において、九州を中心に「石の文化」が大きな花を咲かせたことは、特筆に値する。

 激動の時代を駿馬の如く駆け抜けた彼ら石工達の「作品」は、武骨ながらどことなく優しい。石橋に魅せられた私の拙い写真から、肥後の石橋の魅力を少しでも感じ取っていただければ、私にとって望外の幸せです。

(写真と文 関戸昭文) 

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掲載番号
架橋年度順
橋の名前
由来
1

文化14年(1817)頃

雄亀滝橋

雄亀滝橋とその水路(砥石町石野)「おけだけはし」岩永三五郎の架けた 全国で二番目に古い水路橋。6年の歳月を架けて完成。今でも現役の水路橋として活躍。37年後に通潤橋の手本となる。三五郎はその後鹿児島に五大石橋を架設。今西祐行の小説「肥後の石橋」に登場する。

2

文政5年(1822)頃

二俣橋

双子の石橋からなる珍しい眼鏡橋。林七の長男 嘉八の架設。二俣橋周辺は「二俣五橋」と呼ばれ、江戸・大正・昭和の橋が存在する。(中央町)

3

天保3年(1832)

祇園橋

45本の石柱を持つ珍しい多脚式石橋。そばに立つキリシタンの悲しき墓標。島原の乱では川は血で染まり屍は橋を埋めたという。(本渡市)

4

弘化4年(1847)

霊台橋

全長90メートルの巨大な石橋。単一アーチ橋としては日本最大級。かつては22年間に5回も架け替えられた交通の難所。勘五郎兄弟の架橋(昭和41年まではトラックやバスなどの重量車を通してきた。)(砥用町清水) 

5

嘉永元年(1848)

高瀬目鑑橋

橋柱の長さが中央部と端で異なる特徴をもつ珍しい橋(玉名市高瀬下町)

6

嘉永2年(1849)

大窪橋

洪水に耐える為のせり上がった姿は、まるで中国の風景である。

7

嘉永3年(1850)頃

門前川眼鏡橋

かつての主要街道に残る(熊本県御船町木倉)重責を果たした後もその優しい姿を残す。門前川眼鏡橋は、永寿川の門前を流れているため「門前川」の名が付いた。つなぎ目に「石のくさび」を打ち込んである珍しい眼鏡橋である。

8

安政元年(1854)

通潤橋

物語としてまとめています。

9

安政2年(1855)

八勢眼鏡橋

旧日向街道の難所に架かる石橋。御船の商人林田能寛が多額の資財を投じ、その熱意に打たれた人々の手により、わずか4カ月で完成。「わが命をかけて この難所を安らかな道筋となし 世の人々を救わん・・・」”のうかんさんの めがねばし”は、この子供たちの成長をも、優しく見守っているようだ。(御船町上野)

10

慶応3年(1867)頃

船場橋

船場川に映る朱い橋影が美しい。「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ」の手まり歌に歌われたとされる。(宇土市船場町)

この写真展は、関戸昭文さんのご協力にて開催しています。

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