みんなで広げよう「橋の日」を 8月4日は「橋の日」記念日

宮崎の橋についてもっと知りたい方 [ 宮崎と橋 へ戻る ]

田代 学氏発行による「消えた赤江川(大淀川界隈新風土記)」より転載
消えた本町橋

田代 学

昭和初期、橘橋の250メートル程下流に本町橋は架けられていた。 昭和2年8月11日、台風接近による前日からの豪雨によって大淀川の増水が続いていた。そして同日午前未明、高松橋が崩壊・流失し、その橋脚、橋桁、欄干そして他の流失物は濁流とともに橘橋(4代目)につぎつぎと激突していった。正午前、ついに橘橋も大音響とともに土煙を立てて濁流の中に崩壊した。さらに下流の赤江橋も崩壊・流失し、この日わずか一日で鉄橋(大正12年完成)を除いた大淀川をまたぐ橋は3橋ともに消失したのである。わずか数時間で3つの橋が失bネわれたわけだが、当時の宮崎県古宇田知事の対応は極めて早かった。3橋流失後、古宇田知事は直ちに鉄道当局と交渉し、3日後の8月14日には鉄橋上に一時的危険防止の仮工事を施して[鉄橋上の一般の通行]と[宮崎・大淀間の汽車の無賃運送]を開始している。さらに宮崎市は高松通と上野町筋の大淀川には[渡し舟]を就航させたのである。


 3橋流失後の古宇田知事の応急処置としては極めて早急な対応であった。これは彼が元警察部長であり、翌月の県会議員選挙において警察力を動員して不正事件を起こした(古宇田事件、知事は翌3年1月免官となる)ように、[警察に顔が効いた]ためであると考えられる。ともかく暫定的処置としての仮橋架設が行われるのだが、何故かその場所は流失した橘橋の跡ではなく、本町通と太田町を結ぶ(現在のホテルプラザ西側道路の延長上にあたる)位置であった。この本町通とは県庁東側から大淀に向かう道で、現在もこの通りを北進した宮崎県合同庁舎前の三角形の緑地帯には本町通線の標識がある。


 宮崎県知事、宮崎市長の出動要請により、熊本工兵隊から2個中隊240名が派遣され、本町通の延長線上に仮橋架設工事が開始されたのは橘橋流失からわずか27日後の9月7日のことであった。そして、何と2週間後の9月20日には架橋作業は終了し、工兵隊は熊本に帰隊したのである。

 9月29日には渡行式が行われ、一般の通行も許可されるとともに、大淀・宮崎間の鉄橋通行と無賃乗車は廃止されている。この仮橋が正式に完成したのは10月28日のことであるが、それでも作業開始からわずかに52日目のことであった。

 この橋は熊本工兵隊によって架橋されたために、当初[工兵橋]と呼ばれていたが、やがて(本町通の延長線上であったために)[本町橋]と呼ばれるようになったと言われている。


 さてこの本町橋に遅れること約1ヶ月、10月13日には4代目橘橋跡(正確には現在の橘橋よりも20メートル程下流の公衆トイレのあたり)に仮橋架設工事が開始され、12月1日には仮橋橘橋(5代目)が完成するのである。

 四代目橘橋が流失したとはいえ、橘橋の仮橋架設工事よりも、何故早くそれも突然に本町通延長線上に新たな橋が架設されたのだろうか。

 橘橋の永久橋(コンクリート橋のこと)化はすでに明治43年には県議会に提案されており、4代目橘橋流失後の「新たな橘橋は永久橋化」されるべき状況にあった。しかし、突然の(四代目)橘橋流失であり、その永久橋架設準備の間の仮橋架設もまた必要であったと考えられる。

 短期間で完工したとはいえ、本町橋が[橘橋の仮橋]として架設されたにしては[立派すぎる橋]であり、加えて本町橋完成の1ヶ月後にはまさに仮橋としての5代目橘橋が架設されているのである。結果的には14年間流失しなかったほど丈夫な本町橋は何故橘通ではなく本町通の延長線上に架けられたのであろうか。

 宮崎市郡医師会史には、本町橋架設当時の医師会長であった[綾部千平]について長男・勣(いさお)氏の談話として「橘橋が福島(邦成)による如く、本町橋を架けた功労者が綾部千平であるのも面白い。上原元帥(当時工兵監)と親交があり、この上原と交渉し、熊本の工兵隊二個中隊を宮崎に派遣し、架橋演習の目的で、橘橋の流失の空間をねらって架橋されたものと聞く。これは自宅の前を宮崎の本通りにしたかったのか、交通緩和の目的の何れかであろう・・・(途中一部略)・・・名誉欲、権勢欲及びこれに伴う力、良き人生を送った人だと感じます。」と、本町橋架橋の裏話(真実?)が記されている。

 綾部医師は元赤江橋架橋組合長でもあり、橋が町作りに果たす役割を知っており、本町橋架設により自宅前を宮崎の本通りとして栄えることを望んだ可能性は高い。しかし6代目橘橋が永久橋となるとそれにつながる橘通が急速に発展していくために綾部医師の望んだ本町通の発展は夢と消えたのである。


 昭和6年仮橋の橘橋が破損し撤去されると本町橋はその代わりに[永久橋架設間の仮橋]として大淀川両岸を結ぶ役目を担うに甘んじていくのである。そして昭和9年11月1日に本町橋は一部が破損し復旧されるものの、昭和16年10月1日に台風で流失すると2度と架橋されることは無かったのである。

 戦前に大淀川に架橋された橘橋、高松橋、赤江橋そして本町橋の4橋の内、流失後に一度も再架橋され無かったのは本町橋だけである。そして4橋の内この本町橋と赤江橋の場所には橋は現存しておらず、両橋があったことを知る人も現在では少ない。

 4橋の橋脚は一部分ではあるが水中に現存している。とくに本町橋の橋脚は直径が20センチ近いものもあり、また岩礁と橋脚とをコンクリートで補強するなど架橋組合や県が作った田の三橋に比べ、はるかに頑丈に作られている。 >

 宮崎県や県民に関係ない熊本工兵隊によって架橋されたためであろうか、本町橋には他の3橋のような架橋碑は残されていない、いやおそらくは作られなかったのであろう。ただ架橋中に大淀川に落ちて死んだ2人の工兵と橋の完成後橋からのバス転落事故で死亡した鐘紡工場長を弔う小さな鎮魂碑がホテルプラザ前の橘公園にひっそりと建ってはいるが、その碑に気づき立ち止まる人もいない。

 (注)昭和3年5月、碑は錦町弘徳寺境内に建立された。

 本町橋の橋脚の一部は現在も川の中に残存しており、干潮時には10数本が川面に顔を出している。しかし名前すら人々に忘れ去られた本町橋の橋脚に気づく人は少ない。


(参考資料)
 宮崎市史 宮崎市史年表 宮崎県政80年 宮崎県政外史 宮崎市郡医師史 日向郷土事典
 宮崎県50年史 宮崎県の100年 写真集宮崎100年 宮崎県警察史 宮崎碑文志