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その現状と特徴など

岡崎 文雄

(1)はじめに

 石造拱橋(せきぞうこうきょう)又は石拱橋(せっこうきょう)は、一般には石造アーチ橋、或いは親しみを込めて眼鏡橋や太鼓橋とも呼ばれている。
 長崎眼鏡橋や皇居前の二重橋の石橋と言えば一般の人にも馴染み深いはずである。 (注1)  
 石造アーチ橋は、北海道から沖縄県までに全国に1,600基余りが現存しているようであるが、九州・沖縄以外はごく少なく80数基で全国の5%ほどであり、その大部分が九州にある。
 九州では各県に見られるが、中でも大分県は496基、鹿児島県440基、熊本県は実数が不明であるが350基ほどと推測され、これら3県の数が圧倒的に多い。
 昭和60年秋まで40年近く宮崎県の住民でありながら、私に記憶に残る石橋は日南市に乙姫橋と高千穂峡の神橋しかなかった。石橋に関心が無かったせいである。その後宮崎県には、小林市やえびの市さらに日之影町と高千穂町に江戸期の石橋があることを知ったが、全体で何基が現存するのか見当もつかなかった。
 日向市に3連の石橋があることを知り、佐土原町に1基だけある石橋が平成12年2月には撤去されることを聞いて、ぜひ見ておきたい、との思いに駆られて見学を思い立ったが、ついでに県内全域の石橋探訪を試みることにした。
 宮崎県内の石橋探訪の最大の目的は現存数の把握であったから、教わった橋から橋に走り回って地図上で位置を確認した。橋長や橋幅は記述されていても、その他の数値は不明なものがかなりある。このため、現地では可能な限り径間・拱矢・環厚を計測し、壁石やアーチの石積みの状況などもつとめて把握するようにしたが、川に降りることができない場所がかなりあって、十分な計測もできなかった。また、目当ての石橋までたどり着くことができても、高橋(高千穂町)や鍋谷橋(都城市)などのように、周囲の状況が樹木に遮られて写真撮影はおろか目視もできないような場所もいくつかあり、大まかな観察に終わったことは否めないが、予想に反して17市町村で73基が現存することが分かった。

 この観察結果をまとめた資料は、宮崎日日新聞社のご厚意で6月中旬記事で紹介され、記事を読まれた数名の方から、資料にもれている石橋の情報を寄せていただいた。これらの石橋は再度確認に出向いたが、出向いた先で新たに判明した石橋もあって結局19基が加わることになり、総数は94基(注2)となった。予想をはるかに超える数である。

 先に作成した資料は、それぞれの石橋ごとに写真と諸元・外観の他に簡単な説明を揚げていたが、説明欄を補充し、新たに判明したものを追加し、さらに、全域の石橋の観察結果を次のようにまとめてみた。

(2)現存数や構造上の特徴などは次のとおりである。

1 石造アーチ橋の呼称について

 大まかに言って県北では眼鏡橋、県南では太鼓橋と呼ぶことが多いようであるが、えびの市では3連の橋をめがね橋、単一アーチの橋を太鼓橋と使い分けがされていた。さらに、太鼓橋を訛って「てこ橋」とも呼ばれていることを教えていただいた。
 大分県では車橋と呼ぶことがあるが、宮崎県では耳にしなかった。丸暗渠や巻暗渠という事場は大分県で石工職人の間で呼ばれていたが、北郷村で暗渠碑に出会ったので、一部の地域では暗渠と呼ばれていたことが伺える。

2 現存数について

 現存数は以外に多く44市町村のうち21市町村で94基があった。
 県北と県南に大別すると県北で57基、県南で35基である。地域別では 延岡市・日向市・東臼杵郡のうち 2市5町村で27基 西臼杵郡 3町で28基 西都市・児湯郡は 1市1町で 2基 県北57基 宮崎市・宮崎郡・東諸県郡のうち 2町で9基 日南市・串間市・南那珂郡のうち 2市で8基 都城市・北諸県郡のうち 1市2町で6基 小林市・えびの市・西諸県郡のうち 2市で12基 県南35基 であるが、このうち西都市・児湯郡地域には2基だけで少ないのが不思議な気もするが、以前は架設されていたのかどうかは分からない。
 市町村別では高千穂町12基が最も多く、次いで日之影町9基、小林市8基、北郷村8基、五ヶ瀬町7基、田野町7基などとなっている。(佐土原町の1基は撤去されたため除外した)

3 架設年代について

 架設年代を特定することは裏付けの資料などがない限り中々難しい。石橋の供養塔や記念碑、親柱の刻年などがあれば確実であるが、高欄もガードレールに変わったものが多いだけに推測に終わることもかなりある。
 天保11年(1840)架設で県内最古と言われていた日之影町の深角眼鏡橋は明治18年に改築されたことが判明した。従って弘化4年(1847)架設の小林市の大丸眼鏡橋が現時点では最も古いことになる。一方最も新しいのは北郷村の和合橋で昭和37年架設である。

 年代別では大まかな区分であるが別表1のとおりである。江戸期のものは推定されるものを含めて9基、明治の架設21基、大正の架設12基、昭和の架設38基で、大正以降の新しいものが多い。

4 規模・構造について

(1) えびの市のめがね橋と日向市の昭和橋が3連、三股町の梶山橋と小林市の石氷橋が2連でこの他は単一アーチの石橋である。えびの市のめがね橋は昭和3年の架設ではあるが、橋長58.2m、県内最大の石造アーチ橋である。もともとは営林署の林用軌道橋で、大分県の場合と同様に熊本営林局の技師が設計したものであろう。いずれも昭和の架橋である。

(2) 単一アーチの石橋で径間長(スパン)の最も大きいのは高千穂町の神橋である。正確に計測されたものはないが、橋長から推測して25m以上は考えられる。

(3) アーチ石は通常一重で積まれているが、二重積みの橋が11基ある。全体の12.0%である。二重に築いたアーチが一重のものよりも強度上堅牢と言えそうであるが、これを否定される方(装飾上のものとする)もあり、橋梁工学上どうなのか私には分からない。
日南市の大谷橋のアーチ石の厚さは内側が75cm、外側が50cmで大きな石を積んでおり、同様な造りの石原橋以外には見られない独特のものになっている。
二重アーチの橋は県北に6基、県南に5基である。従って、二重アーチが肥後の技または薩摩と技と決めつけることはできないように思う。(表3・参照)

(4) 橋の壁石は、垂直または垂直に近い勾配で積み上げた橋と、一見して勾配を取って積み上げたものがある。勾配を取って積んだ場合、アーチの起拱石の幅よりも天端(てんば)の幅が狭くなり、石橋の横断面は台形になっているわけである。地震対策で台形に築いたとも言われるが、それだけではなさそうにも思える。
台形に築いた場合、壁面もアーチの両端も勾配をつけることになる。アーチ石の端にあたる面を勾配に合わせて加工して積み上げたものと、一段ごとにアーチ石を後退させて積み上げたものがある。後者による施工例は唐仁田太鼓橋(田野町)にあるが、多くはない。えびの市の大河平水路橋は台形2段に築いており、他には例がない。
台形に築いた橋は県外では、鹿児島市の甲突川に架設されていた新上橋(弘化2年架設・平成5年流失)などがあったが、宮崎県以外でもそう多くはない。 二重アーチも台形の橋も宮崎県の特徴と言えるのではなかろうか。

(5) 壁石は一般的に古い石橋は乱積み、新しい橋は布積みになっているが、中には新しい石橋でも乱積みのものがあり、壁面の状況だけの判断では架設年の推定を誤ることにもある。布積みはセメントの出現によった新しい工法と言えるから、明治前期以前の古い石橋に布積みのものはないことは確かである。
日南市の大谷橋は布積み状に積み上げているが、新しい工法の布積みではなく石原橋以外では見かけない石積みである。えびの市の大河平水路橋も似通った造りである。 この他、西郷村の上野原橋や串間市の三ヶ平橋などのように、壁石を谷積みにした橋もいくつかあり、また、壁石は布積みで仕上げ袖の部分を谷積みにした橋もいくつかあった。

(6) アーチの起拱石は岩盤の上に据え付けてアーチ石を積み上げるが、架橋地点も場合によっては地盤の軟弱な場所もある。日南市の石原橋では両岸の起拱石の下に梯子胴木(はしごどうぎ)を置いて石を積み上げている。梯子胴木は、構造物の不等沈下を防ぐために基礎の部分に施工されているが、川底に露出している。他にも同じ工法のものがあるかも知れない。

(7) 石橋の壁面(要石の上)に橋名板をはめ込んだものは日南市の堀川橋の1基だけで他には見当たらない。堀川橋の橋名板は両側の壁面を飾っているが、文字は当然当時の知名士が揮毫したものであろう。

(8) 要石やアーチ石に架設年や石工名などを刻んだものは、今回の観察では見当たらなかった。川底から観察できる箇所が限られていたことから、見落としがあったかも知れない。

5 石橋の供用区分について

 石橋の供用区分はのとおりである。
(1) 石造アーチ橋はやはり道路橋が多い。国道・県道に残されているのは8基である。人々の生活道路として市町村道の橋が多い(43基)のは当然のことであろう。
(2) 水路橋は実質9基であるが、道路併用となっている高野橋(都城市)があり8基で集計した。水路橋はこの他にもまだ人目につかないものがあるのではなかろうか。
(3) 神社や寺院の参道や境内に架設された橋は、都萬神社(西都市)の神橋1基だけであった。この他にも架設されたものがあることは十分考えられる。
(4) 自家用に架設されたものは和合橋が1基、林道の橋が1基、公園に移設した石橋が1基でいずれも北郷村である。
(5) 既に役割を終えたが廃橋となって保存されているものが20基である。

6 石橋供養塔・架橋記念碑について

 石橋の供養塔や架橋記念碑は12基である。どちらも、架設年代を特定できる確実な裏付け資料である。
 現在と違って地元が寄付金を募り架橋費用に充てたものがほとんどであり、それだけに橋に対する思い入れは強かったはずである。世話人や寄付者・寄付金額などを刻んで後世に伝えようとしたものであるが、宮崎県に限らず、現在では架橋当時の恩恵は忘れ去られているのが実情であろう。
 記念碑の中で架橋の経緯を碑文に刻んだものは田野町の元野太鼓橋と山之口町の境橋の2基であった。

7 石工について

 現存する石橋で石工の名前がはっきりしているのは21基、このうち県外の石工が架設したものは5基である。
 宮崎県に限らず、石造アーチ橋を架設した石工棟梁の名前は、記念碑に刻まれるか記録に残されない限り後世に伝わることは殆どない。
 記念碑のすべてに石工の名前が残るとは限らない。
 江戸期架設の石橋では、日之影町深角の尾谷橋には肥後南関の石工浅右エ門の名前があるが、この他では、高千穂町の久兵衛門や左目木橋は肥後の石工の架設と推測されておりほぼ間違いないものであろうが、新しく資料でも見つからない限り石工の名前を特定することは難しい。
 もともと、西臼杵地域では熊本県と、北・西諸県地域では鹿児島県との交流が考えられる。江戸期から他国の石工を招いたとしても不思議ではない。
 明治以降、熊本県の石工が南郷村で、大分県出身の石工が東郷町で、鹿児島県の石工がえびの市で架橋した実績があるが、多くは地元の石工により架設されたものであろう。時間をかけて調査すれば石工の名前をまだいくらか特定できると思う。

8 文化財の指定・登録状況

 県指定の有形文化財となっているものはない。国の登録文化財は日南市の堀川橋とえびの市のめがね橋の2基、市町村指定が4市町で7基である。
 東郷町では、御影石造りの指定文化財碑を3基、それぞれの橋畔に設置していた。

9 石橋の顕彰

 西郷村では、6基の石橋のうち5基に置村100年記念碑が設置されていた。平成元年に設置されており、明治22年の町村制により発足した西郷村が置かれた記念に石橋の顕彰を思いつかれたものであろうが、石橋以外の建造物などにも設置されたものかどうかは分からないが珍しい事例である。

10 石橋の保存について

 石橋は幅員が狭く地元の人から架け替えを要望されて撤去することが多かった。最近は石橋を残そうと配慮されるようになり、現地で保存したり、移設して残すようにもなった。
 北郷村では、水害の後撤去した薬師橋を農村公園に移設しているが、他の市町村でも参考になるかも知れない。
 撤去を免れた石橋もあるが、保存のために常時善良な状態で維持・管理することは中々難しい。

(3)おわりに

 石造アーチ橋は、予期しなかった洪水で流失し、或いは人為的に破壊されている。
 江戸期には藩に有益なものが認められ、明治以降は近代化に貢献した石橋であるが、交通手段・輸送手段の急速な変化もあって、次第に姿を消し、見捨てられているのが実態である。幹線道路を外れた地区の道路に架設された石橋は地元の住民が寄付金を集めて架設したものが多いが、架橋のために奔走した先人の功績も、汗を流した石工の苦労も忘れ去られようとしているようである。
 東京・日本橋(明治44年)や大分県の石橋(文政7)も国の重要文化財に指定された。
 宮崎県でも、堀川橋やめがね橋が登録文化財となるなどもあって近年、石造アーチ橋に関心を寄せる方々も増えたようであり、近代化遺産としての認識や評価も高まっているようである。一方、石橋が水害の元凶とされて、撤去の声を大きくさせることもある。
 今回の石橋探訪の第一の目的は、宮崎県の石造アーチ橋の実数を把握することであった。お陰で比較的に短期間で成果を上げることができた。県外に居住する物好きな旅人の石橋観察であり、行政の方に指導・助言をするような立場にはないし、保存について注文をつけるつもりもない。それでも昨年、教育委員会の方に案内されて雑木・雑草に覆われた古い石橋に立ち寄った時、独り言のように「今のうちに除伐すれば、この地方では一番古いかも知れない石橋が見られるが」と、つぶやいた橋が5ヶ月後、2度目に訪れた時には綺麗に清掃されていたのが、何よりもうれしい出来事であり感激した。

 今回の石橋探訪では、あらかじめ市町村の建設課(土木課)や教育委員会(社会教育課・文化課)に電話で、石橋の有無や所在場所を照会し、或いは直接訪問して橋名や諸元などをご教示いただいたが、ご親切な対応をいただいた。厚くお礼を申し上げる次第である。さらに、別記の方からは、私の探訪にもれていたいくつかの石橋の情報をいただいた。お陰でこの冊子をまとめることができたわけであり感謝のほかはない。
 このページに掲げた石橋の他にも、いくつかの石橋が人々の生活を支え、また、荒れ果てたまま見捨てられたものもあると思う。石橋が架設された地元の人が、石橋の価値(歴史的な価値・構造上の価値)や青い水の上に架かった石橋のある風景や景観をどのように評価するかによって、石橋を保存するかどうかがおのずと決まるのではなかろうか。 今後、石橋探訪を試みようとされる方や石橋の愛好者のお役に立てば幸である。


(注1)
石造拱橋・石拱端の拱の正しい読みは「きょう」であるが、拱橋を「きょうきょう」とは言いづらいので「こうきょう」と読んでいる。
(注2)
田野町の築地原2号水路橋は現存しているのは確実であるが、探し当てることができなかったため未確認である。



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